父ロルフ・ラングは息子に、最初に身につける基礎として金属加工の技術を習得することを推薦し、グラスヒュッテにある精密機械・金属加工の専門学校に3年間送り出します。この歴史ある土地でマルコ・ラングは、時計師としてのインスピレーションを磨くことから逃れられるはずもありませんでした。
ドイツ統一を経た後、マルコは引き続き修行を続けるため北ドイツで著名な時計師、イーノ・フレスナーのもとを訪れます。この時期、彼はフレスナーの下で職人修行(注:見習い期間試験の「レーリング」を修了したものが通る第2段階の職人修行時期のことで「ゲゼレ」と呼ばれる)に没頭し、とりわけ精密振り子時計の製作に深くかかわるようになります。7年の修行期間を終え、そしてその後無事に「マイスター」の資格を取ったマルコ・ラングは、故郷ドレスデンへと舞い戻り、時計製作と 修復、調整技師として自身の店舗を開くこととなりました。最高の家系、家庭環境で育ったマルコは、しばらくするうち、ドイツの時計収集家たちの間で名を馳せることとなります。
マルコが修行を行っている間に父ロルフ・ラングは、かの「A. LANGE & SÖHNE 社において見習い工教育係、修行工指導者として、主任時計師として活躍します。2001年の最初にすでに独立し事業をはじめている息子マルコに、自身の見習い工の中でもピカ一に光る原石ミルコ・ハイネを紹介しました。志を同じとする2人の時計師の出会いです。
そうしてこの2人、マルコ・ラングとミルコ・ハイネは共同で時計工房LANG&HEYNEをスタートさせます。ラングとハイネは、グラスヒュッテン時計を生産する既存の大きな企業に対しても、2人の能力を発揮すれば新しいブランドとして成立するとこの時期からすでに大きなチャンスを見出していました。より個性・個人を時計に写し込み、より多くの手作業により、より伝統的な芸術作品を2人は創り上げることに専念したのです。 そして1年後にはすでに、LANG&HEYNEの最初のモデル2つがバーゼル・メッセで発表されることとなりました。小さな時計工房では考えられないほどの契約が集まり、本格的に時計製作に専念する日夜のはじまり でもありました。しかし皮肉なことにそうした成功物語が2人の時計師の創作力を麻痺させることともなっています。2002年夏、将来の工房経営に対する考えの違いからミルコ・ハイネは工房から去り、自身の道を歩みだします。しかしこれから先も時計工房LANG&HEYNEの名前どおり、2人の天分に恵まれた時計師が作り上げた根本理念は変わることがなく、工房の名前はドレスデンの精密時計と同義となることでしょう。 最も好きな場所が時計の製作机という根っからの時計師マルコ・ラングは、自身の時計創作欲を満たすために留まることなき歩みを続けています。大きな会社、有名メーカーの時計に感動することはなく、自身の時計にのみ感動が生じるとまで彼は言い切ります。2003年末には時計工房兼、時計販売店であった店舗を売り払い、時計の製作と創作のみに専念できる環境を作り上げています。 ドレスデンの閑静な住宅地にあるマルコの自宅にLANG&HEYNEの工房は新たな居所を見つけています。ここで彼は格別な時計職人の3人の同僚とともに時計製作を行っています。芸術作品ともいえる彼の時計は、この小さな工房で年間30本から40本しか製造されません。これは彼自身が1人ですべての部品を組み立て、調整を行い、保証書にサインをする工程を考えれば妥当な数字でありましょう。彼自身が確信した品質がすべてなのです。
3年間のメンバー候補者としての暫定期間を経て、マルコ・ラングは2005年より国際独立時計師の機関AHCIの正式メンバーとして登録されています。この閉鎖的で時計芸術と創造性を持つものだけに開かれたクラブにおいても、ラングの時計工房は特別な地位を確立しています。LANG&HEYNEは、品質、創作能力、時計師としての能力について今世界で秤にかけられていることを喜びに感じ、同時に重大な責任を義務として請け負っています。
マルコ・ラングはこの伝統的な時計芸術作品を時計好きのためだけになら喜んで手放す覚悟ができています――本来はそもそも時計の一つ一つを自分のために製作し、製作する過程で常に喜びを感じているのにもかかわらず・・・

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